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あとがき解説 その5

第十四話 「橙子の場合」


 堀川橙子(32)


ゲイという点において、もし不快な扱いをしてしまっていたらゴメンナサイ。


以前、美容室の店長さんとした会話をモチーフにしました。

その時の話の内容は「彼女が、妊娠したらどうする?って聞いてきたらどうするか」っていう。

店長さんは「逃げるね」と(爆)。

でも、実家や会社が知られてたら逃げられないよねーとアホなことを言ってました。

で、なんで女って、そういうこと聞くの?みたいな。

いや、でも私、聞いたことありますよってな話から。



第十五話 「里実の場合」


 鎌田里実(11)


もう単純に1ページで終わらせてみたかった。

それだけです。

ベタベタな話です。

私も男子からいただいた手紙を差出人の下駄箱に画鋲で貼り付けておいたことがあります。

イタズラだと思ったんで。

マジレターだったら、かなりヒドイことをしたもんですが。

子どもの頃って、恥ずかしさからとんでもない仕打ちをするもんでしょ。



香月 瞬 

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* 第十五話 * ~里実の場合~ ①終

有野たけし君へ。

この間は、教科書見せてくれてありがとう。
おとといの席がえで、教室のはじとはじにはなれちゃったから、教科書わすれても、もう見せてもらえないね。
席がとなりじゃなくなって、なんだかさみしいよ。
たけし君はどうですか?
わたしは、まい日とてもおもしろかったから、今はちょっぴり学校がつまらない。

というわけで、いきなりだけど、わたしはたけし君が大スキどえ~す。

今の席になって、自分の気もちに気づいちゃいました。
学校じゃ言えないから、手紙にします。
よかったらイエスかノーか教えてちょんまげ。


かま田里実より。


P.S.ぜーったいにだれにも言わないでね!









翌朝、マジックでNOって書き殴られた便箋が黒板に貼ってあった。

小5。

初めて書いたラブレターがこの扱い。

 

私は、有野毅を一生恨む。

 -終-


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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ?終

「もういいよ」


柴田が唇で橙子の口を塞いだ。


「言わせてよ」


橙子はガバッと上半身をベッドから起こした。


「私、人殺ししたんだよ?今まで誰にも言わずにいたけど、ずっと苦しくて」


必死の形相をしていることに自分で気付いた橙子は、少し口調を和らげた。


「…貴昭に捨てられたって、その場で分かって、ああ、全部気付いてて、着々と逃げる準備してたのねって…」


柴田も橙子の隣に起き上がると、肩をそっと抱いた。


「私、よく考えもせずに、その足で産婦人科へ向かったわ。でも同意書がいるんだって。すぐには堕胎してもらえなかった」


「うん…、産もうとは思わなかったんだ?」


「貴昭が全てだったの。貴昭は欲しかったけど、子どもだけはいらなかった」


俯いた橙子の顔から雫が落ち、柴田の腕を濡らした。


「貴昭がいてこその出産で、結婚で…」


そこで言葉が詰まる。


「妊娠を結婚するための道具としか見なしていなかったんだなって、今は思う」


「向こうにしても、本気の相手じゃなかったら、男は責任とりたくないかもな」


「そういうこと。どっちもどっち…。でもね、あの時の私は、愛されていると思ってたのよね」


指先で涙を拭った橙子は、うっすらと笑った。


柴田の抱きしめる腕に力が入った。


「でも産んで待ってても、あの人が帰ってくるワケじゃないってすぐ理解できたから、宿った命を殺すことに迷いはなかったの。足枷になるのは目に見えていたし…」


わざと辛辣な言葉を使って、自らを虐げていた。


橙子は自分を責め、後悔している。


「貴昭は、海外に飛んで、更なる照明の勉強をして、本当のプロになって戻ってきたのね」


貴昭の成功は、橙子にとっては捨てられた時同様に、衝撃だったのだろう。


未だにしがない舞台女優…。


あの時、子どもを産んでいたら、女性として何かが変わっていたのだろうか。


「ゲイだなんて笑えない噂のオマケ付きでな」


「ホント。バイだったのねって、今考えるといろんなことが合致するの。振り返ると情けないけど…」


柴田は橙子の顔を自分の方に向けるとハッキリとした声で言った。


「なあ、俺は、お前のこと真正面から受け止める自信あるぜ」


「…?」


「そろそろ、こんな関係も終わりにしないか?」


瞳に潤いが増した。


柴田は力強く橙子を抱きしめ、頭を撫でる。


「ずっと傍にいてくれよ。俺は、お前から逃げたりしないから…」


窓の外は白んできている。


新しい夜明けの訪れだった。



 -終-


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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ?

「やだ、貴昭、中で出しちゃったの?」


「ごめん、タイミングが…」


橙子は枕元からティッシュを何枚か取り、貴昭に渡すと、自分も股から液体を拭き取った。


「ま、大丈夫よ。危険日ではないはずだから」


橙子はそう言ってゴミ箱に丸めたティッシュを捨てた。


貴昭はギュッと橙子を抱きしめた。


胸が高鳴る。


貴昭を愛しているとしみじみ感じた。


こういうひと時がこのまま止まってしまえばいいと思う。


今の射精で、いっそのこと受精してしまったら、貴昭はずっと橙子のそばにいてくれるのだろうか。


急に独占欲が電流のように身体を駆け巡り、結婚したいと思った。


貴昭と結婚出来るのなら、女優としての成功なんて要らない。


「ねえ、もしも妊娠したら、どうする?」


「…困るね」


「まあ、無責任なこと」


「逃げる…かな、多分」


悪い冗談だと橙子は笑った。


この時の会話がまさか現実のものになるとは、誰が予想するだろうか。


まさかと思ったまま、二ヶ月近く経って、橙子がようやく妊娠に気付いたとき、全身が震え上がる程の恐怖と喜びを同時に感じたものだ。


数週間前から、妙にけだるく、胃がムカムカしていた。


生理が遅れることはよくあることなので、気にも留めなかった。


二日酔いが続き、風邪でも引いたのかもしれないと貴昭にはこぼしていた。


それが、命の芽生えだったとは。


病院に行った帰り、橙子は真っ先に貴昭に電話をした。


「ねえ!私、出来たわ。あなたとの赤ちゃんよ」


「やっぱり…」


貴昭は確かにそう言った。


「今から、部屋に行ってもいい?これからのことを相談したいの」


「今夜は、小屋入りしないといけないから、明日おいで」


橙子は勿論産む気でいた。


この答えで貴昭も受け入れてくれるものだと思っていた。


ついに結婚するのだ。


安定期に入ったら、式を挙げられるだろうか。


いや、そんな贅沢は言わない。


籍を入れて、無事に健康な赤ちゃんが生まれてくれれば、それでいい。


橙子はウキウキしながら、翌日に貴昭の部屋へ向かった。


部屋の前に着くと、ドアが外側に大きく開き、ストッパーがかけられていた。


すぐ脇の窓も半分開いている。


橙子がひょっこりと中を覗くと、がらんどうの部屋の中で管理人さんが掃除をしていたのだった。



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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ?

橙子は、柴田の部屋にいた。


柴田はムードにこだわる男だ。


間接照明は、アロマキャンドル。


低い音でジャズが流れる。


心地よい香りに包まれながら、柴田の脚の間にソファのようにして、肢体を預けていた。


後ろから、柴田が橙子の耳を甘噛みして、囁いた。


「で、谷内ってどんなヤツだったの?」


「付き合うのは私が初めてだって言ってたわ。いつもいろんな女に言い寄られてきたけど、逃げてきたって」


「なんで、橙子とは付き合ったんだろう?」


「さあね。お愛想だったんじゃない?あの頃、私の後ろには大御所の照明家がいたわ」


柴田が橙子の脇の下から腕を通すと胸をぎゅっと掴んだ。


「その時にゲイだって気付かなかったのかよ」


「いーたーいっ」


橙子はくるりと柴田の顔の方に向き返り、首筋に唇を這わせた。


「お尻にしか興味ない男だったのよ。笑っちゃう」


貴昭のことを思い出すと、様々なそれっぽいヒントが思い出されて、可笑しくて仕方がない。


尊敬する人、イチロー。


憧れのファッションは、中田ヒデ。


よく聴く音楽は、槇原に明菜。


演劇界にいるだけあって「ガラスの仮面」が好きだった。


昼ドラとか大映ドラマとか、ドロドロしたのを好むのが男性なのに変わってるなと感じていた。


女好きだと本人は言ってたけど、よく男友達の家に居候してたっけ。


今思うと…。


そんな偏見ではあるけれど。


「オカマちゃんではなかったみたいだけどね」


「だったら、お前と寝ないだろ」


柴田は掌で歯で指で舌で、執拗に橙子の胸を攻めた。


他の男の話をしながら、嫉妬心が燃え上がっているのかもしれない。


貴昭は、大して胸にも執着がなかった。


前戯もお情けのような、さっぱりしたセックスだった。


アナルも気持ちよかったけれど、一応貴昭を愛していた橙子はその行為が背徳的で怖かった。


そういう性癖の人なんだと納得しようとも思ったけれど。


たった一度だけ、橙子がお願いして膣に挿入した貴昭は、初めての感覚に戸惑ったのか、中で果てた。


橙子が妊娠したのはそのたった一度の行為だった。


「そう、女の私相手でもちゃんと勃ったワケだからね」


「俺も」


柴田はそう言って、橙子の脚を広げると、優しく中に入ってきた。



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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ③

「ゲイだと聞いて、思い当たる節ないのかよ?」


ニヤニヤしながら尋ねてくる柴田を橙子はキッと睨んだ。


「あんたが想像してるまんまよ」


何を隠そう、柴田と橙子の間には身体の関係がある。


お互いの気が乗ると一緒に寝る…、謂わばセックスフレンドの間柄だった。


演出家と役者のそんな関係なんか、よくある話だ。


柴田がニヤけているのは、橙子の性癖を指してのことだと容易に判る。


彼女は、アナルを攻められるのが好きだったからだ。


そして、そこを最初に開発したのは、言わずもがな噂の貴昭である。


なるほど、そっちの気があったのかと、ついつい想像してしまうには十分すぎる理由だった。


「橙子、今夜は俺の部屋に来いよ」


変な想像をして興奮したのか柴田が誘ってきた。


「谷内の話で盛り上がろうぜ」


「まったく、悪趣味ね」


橙子もその誘いに応じた。


でも、それはただ単に一人になりたくなかったからに他ならない。


今夜、一人で過ごすには、心が重すぎた。


橙子はそっと下腹部に触れた。


柴田が目ざとくそれを認めたが、話題にはしなかった。


「さ、稽古始めよ」


「おし」


パンパンと高らかに手を叩いた柴田がパイプ椅子から立ち上がる。


「身体あったまってるかぁ。まず、エチュードからやるぞ~」


散らばっていた劇団員が一斉に柴田に顔を向けた。


橙子は、部屋の一番隅に陣取った。


今日は気分が乗らない。


適当にやり過ごすつもりで、柴田の位置から少し離れる。


明るすぎる窓の外を眺め、目を細める。


青空の真ん中を一筋の飛行機雲が通っていた。


 ― 海外逃亡が、こんなことになるとは、ね。


シャワシャワとした蝉の声で少し気が遠くなった。




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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ?

橙子はザッとシャワーで汗を流し、出掛ける仕度を始めた。


日焼け止め程度の薄化粧を終え、髪の毛を後ろにひっつめると、マジソンバッグを掴んだ。


履き古し、踵の潰れたキャンバススニーカーを足に引っ掛け、炎天下の中、稽古場に向かう。


電車代が勿体無いので、アパートから稽古場までは自転車だ。


駅3つ分なので、大した距離ではないが、ものの5分で汗だくだった。


9月の下旬に、下北沢のスズナリで芝居を打つ。


今日から、その舞台の為の稽古が始まるのだ。


どんな役がつくのか、そればかりが楽しみだった。


「橙子さん、おはようございまーす」


稽古場に着くと、後輩の女の子が声を掛けてきた。


若い子には負けられない。


看板女優の意地として、橙子はあまり後輩の女優に優しくなかった。


「おい、橙子」


呼ばれた方向を向くと、作・演出の柴田達矢が珍しくもう来ていた。


「あら、柴田、早いじゃない?」


「これ、見てみろよ」


柴田は演劇誌を橙子に差し出した。


「そのスタッフ賞獲った照明って、お前の昔のコレだろ?」


柴田が親指を立てる。


橙子は目を見張った。


大きな演劇賞の受賞の知らせのページの隅に、小さく賞を獲得したスタッフが載っている。


「ああ…」


そこには、紛れもない、彼の名前が掲載されていた。


 ― 谷内貴昭(照明)。


「随分、立派になっちゃったわね」


橙子は苦笑しながら、雑誌を柴田に返した。


「海外行ってたんだな、谷内って」


「そうなのね、知らなかったわ」


今朝の夢見の悪さはこれかと、橙子は感じた。


水のペットボトルのフタをグイとひねった。


「別れてから一度たりとも連絡は来なかったし、…まあ、逃亡したんでしょうけど」


「噂だけどさ」


柴田は一度言葉を切った。


「谷内ってゲイなんだってな」


橙子は飲んでた水を噴出しそうになった。


「…?!」


柴田は雑誌を丸めて、ニヤニヤしていた。


 ― なん…ですって?



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* 第十四話 * ~橙子の場合~ ①

待って。

行かないで。

お願い。

堕ちる。


「貴昭、待って!」

 


自分の声で目が覚めた。


全身にビッショリと汗をかき、パジャマは肌に、髪の毛は頬や首筋に張り付いていた。


目尻からは涙が流れている。


 ―― 泣いてたんだ…、私。


カーテンの閉まった窓に目をやると、その明るさから、朝はとっくに終わっていることが分かる。


窓の外から聞こえてくるアブラゼミの鳴き声が、暑さを倍に感じさせる。


堀川橙子は、布団から起き上がると、流しに水を飲みに行った。


都心で一人暮らしを始めて、かれこれ10年近くなるというのに、お洒落な生活とは縁遠い。


橙子は、小さな劇団に所属する舞台女優。


もう今年で32歳になる。


たまに再現ドラマのオファーは来るが、あれに出たら役者として終わりだと思っている。


プライドだけがこの生活を支えていた。


実態は、毎日バイト三昧の売れない女優だ。


コップ一杯の温い水道水を飲み干すと流し台に両手をつき、溜息をついた。


夢見が悪かった。


 ―― 貴昭…。


昔の恋人が、なんで今頃、夢になんか出てきたのだろう。


あの男と出会って、別れて、ケチのつけ通しの人生だった。


谷内貴昭は、橙子を捨てたフリーの舞台照明家だ。


7年前…、この小さな身体に、あの男の子どもを宿した。


あの子が生まれていたら、もう小学生だったのか。


橙子はそんなことを思って、そのまま流しで煙草に火をつけた。



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あとがき解説 その4

第十二話 「茂樹の場合」


 後藤茂樹(24)(31)


久美の場合の舞台から過去を眺めています。

私自身、遠距離恋愛ってもんをしたことがあるんですが、4ヶ月くらいしか持ちませんでした。

毎日、電話で喧嘩でした。

信用が出来なかったんですかねえ、いろんな点で。

その時にしてみたかったこと。

突然、遠く離れた彼の家を訪ねるってやつ。

お金がなくて出来なかったので、話の中でやってみました。

それと、初めて「デス・マス調」で書いてみたんですが、いやはや書き難いっ!

もう、やんね…。




第十三話「ななの場合」


 渡辺なな(14~15)


こちらは、中学生の話ですが、実態は相手の芳野浩太の話を作りたくて、書き始めました。

えっと、杏子の場合に出てきた彼の過去ですね。

杏子と浩太。

ななと浩太。

同じくらいの年恰好。

ここがミソでございます。

浩太は、分厚い眼鏡をかけていて、こざっぱりしていて、でもアキバにいそうな感じ。

昭和歌謡/高層ビル好きのオタク俳優:半田健人が、イメージぴったりなんですよね、私の中では。

彼に、眼鏡とリュックをあてがって見てください。




或る方からのメッセージで、

短い文章で書いている点を私の特徴として挙げていただきました。

言われてみれば、脚本のト書きっぽいなと。

実際、私が演劇部だった由来なのでしょうか…?

「あなたの場合」と銘打っているので、

出来ればいろんな「あなた」にシチュエーションを当てはめて欲しくて

敢えてそうしている部分もあるんですけど、

そうかと思うと、異常に詳しく書き込んでいる部分もあったりで

あんまり統一感ないんですよね。

実際あったことを一部分ネタとして使うと

変に細かく説明的になったりしちゃいます。

クセなのか、もうちょっと気をつけてみようかと思います。



香月 瞬

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* 第十三話 * ~ななの場合~ ⑦終

ななの成績は、あれからガクっと下がった。


芳野先生が辞めたあと、違う家庭教師がついたが、ななとウマが合わず、苦痛の日々だった。


あとから父に聞いたクビの理由が、多感な時期のななをまた苦しめたのだった。


芳野先生は、いつの頃からか、授業のない日も、ななの自宅や中学校の近辺をうろつくようになっていたのだという。


ななが学校帰りに偶然会ったあの日も、遠くからななを認めた後、帰ろうとしていたところだったらしい。


芳野先生があの辺を歩いていたのは偶然ではなかったということ。


つまり、今で言うストーカー行為に近いことを彼は行っていたのだった。


父は、芳野先生の大学の同級生だという女子大生から匿名でその情報を得、半信半疑でしばらく先生の様子を伺っていたそうだ。


最初は見守ろうと考えていた父だったが、やや状況が変わった。


ななと芳野先生が実際に街中で出会うこととなり、偶然だったにせよ、会っていて帰宅が遅くなったことを父に報告しなかったことで、発展があると踏んだ父母は強硬手段をとったのである。


あの日、家から出た芳野先生は父に頭を下げ、謝罪したという。


ななの傍にいたくて、近所をうろついていたことを認めたのだった。


それでも、ななは、不当な理由でクビとなった可哀想な家庭教師だと認識した。


父のななに対する愛情はよく分かるが、芳野先生に対して逆に謝罪の気持ちでいっぱいだった。


あのイラストも机の引き出しの奥に大事にしまってある。


ななにとって、初恋だったんだと思う。


あんなに優しくて、教え上手で、意外とよく喋る先生をとても悪くは思えなかった。


両親の過剰反応だと、今でも反発している。


むしろ、両思いだったのかもしれないと、ななは先生を思い出す度に、胸が苦しい。


勉強も手につかなくなり、もちろん受験は失敗した。


第一志望に必ず受かるだろうと学校の教師からもお墨付きを貰っていたのに、落ちた。


かろうじて滑り止めには引っかかったものの、母は、日に日にやつれていくななを見て、あの日の決断を悔やんだようだ。


しかし、父は頑として譲らず、恋に現を抜かした馬鹿者だとななと芳野先生を詰った。


ななは、あんなに好きだった父を憎むようになっている。


遅い反抗期が来た。


そして、いつか、芳野先生のもとへ訪ねていこうと考えている。


受け入れてくれるとは思っていないが、感謝は伝えたい。


父の庇護を離れ、先生に気持ちを伝えたら、今よりは少しだけ自信がつくんじゃないだろうか。


ななの自立の第一歩として…。



 -終-


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* 第十三話 * ~ななの場合~ ⑥

家庭学習の時を終え、芳野先生も混ざった家族団欒。


いつもは楽しい会話が飛び交う夕餉が、今日は違った。


ななの向かいに座った父がいつになく寡黙だった。


普段は母とも芳野先生ともよく喋るのに、なんだか重苦しい空気が漂う。


「なあ、なな…」


その父が沈黙を破った。


「受験まで、あと3ヶ月だ。そんな時期に申し訳ないんだが」


「うん、なあに?」


ななが最後のエビフライを齧りながら、父の顔を見た。


「芳野くんに家庭教師を辞めてもらおうと思うんだ」


「へ?」


ななの隣にいた芳野先生が素っ頓狂な声を出した。


「ちょ、待って、お父さん?」


「えっと、すみません、たった今…、初耳なんですが…、クビ、ということですか?」


芳野先生が弱弱しく父に問い返す。


ななが母の顔を見ると苦々しい顔をして黙っていた。


「成績が上がっていることは良く理解しているんだ。それは君のお蔭だと思う」


「だったら、なんでなの?」


「お前は黙ってなさい」


ななは、箸を置いた。


「今、辞めさせるというのは、ななの勉強の面で不利なこと、それは承知の上だ。…だがね」


父は少し間を開けた。


「家庭教師と生徒という関係上に、如何わしい感情を持ち込まれては困るんだ」


ななと芳野先生は絶句した。


「これ以上、ななに恋愛感情を持たれては、こちらとしても対処しなければならない」


「お父さん、何言ってんのよ」


「私は見たんだ。授業ではない日にも二人で仲睦まじく会っているところを。それに何だ?あの額に飾ってある嫌らしいイラストは!君が描いたんだろう!」


父が一気に喋り、段々激昂していくのが分かった。


芳野先生は言われるがまま、反論することもなく、席を立ち、一礼した。


握られた拳は少し震えていた。


「ちょ、先生」


「申し訳ありませんでした。ごちそうさまでした」


そう言うと、先生は荷物をまとめた。


ななは慌てて、引き止める。


「ねえ、いいの?こんなこと言われていいの?」


「なな」


今度は母がななの身体ごと制した。


「おかあ・・・、ちょっと離してよ。可笑しいでしょ、こんなの」


母は黙って、かぶりを振った。


そう、父は言い出したら聞かない。


塾へ行けないのも、ピアノ教室に送迎があるのも、いろんな意味での危険を想定してのことだった。


同級生の男子は、ななの家に電話を掛けてくることをとても怖がる。


父がとても厳しいからだ。


 ― だったら、最初から女性の教師にすればよかったじゃない!?


ななは、心の中で精一杯、父に対して問いかけた。


芳野先生が玄関に向かい、その後を父がついていった。


「先生!違うって言えばいいじゃない!先生!」


母に抑えられたままで、必死で庇おうと頑張ったが、声は届かない。


涙が出てきた。


 ― 悔しい…。


ななは、父への最後の抵抗のつもりで叫んだ。


「私たち、結婚するんだよねっ?」


芳野先生と父が揃って振り返った。


ギョッとするとはこういうことを言うのだろうか。


二人とも恐ろしいものでも見たような顔をして、ななを見ていた。


「大人になって、また、会えたらいいね」


芳野先生は少し怯えた顔を無理矢理笑顔に歪め、そう答えた。


リビングのドアがパタンと閉まると、ななの全身から力が抜け、膝から落ちた。


母が、後ろからそっと抱きしめる。


それを腕で振り払うと、ななはそのまま泣き崩れた。




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* 第十三話 * ~ななの場合~ ⑤

別の日。


部活が終わって、校門を出たななは曲がり角の向こうに芳野先生を見掛けた気がした。


友達とすぐ別れると、駆け足で芳野先生らしき人物が消えた方向に急ぐ。


角を曲がるとやはり遠くに似た後ろ姿を発見した。


相変わらずのカッチリした服装と背負ったリュックを見て、間違いないと確信した。


今日はななの授業はない。


普段からこの街によくいるのだろうか。


ななは嬉しくなって、後を追った。


追い付くと、ななは芳野先生の前に回り込んで声を掛けた。


「せーんせっ」


「うわっ」


仰け反るほどに驚愕した様子の先生に大受けするなな。


「先生、何やってんの?」


「ななちゃん…、いや、えっと、ちょっ…と向こうの古本屋に寄ってたんだ」


しどろもどろになっている芳野先生にななは思い切って言ってみた。


「駅前のマックで少し話さない?勉強抜きで」


「いやいやいや、もう帰る時間だろ?」


晩秋の今は、もう日が暮れかかっている。


腕時計を見ながら渋る先生の手を取ると、ななは思い切り引っ張る。


「大丈夫だよ。行こ」


時刻はもう六時を回っていたので、家が厳しいななを気遣って芳野先生は電話を入れようと提案した。


「いいってば。テレカ勿体ないよ」


二人は駅前のファーストフード店に入った。


普段、リビングで勉強している時は、必ず母が近くのダイニングキッチンにいるので、込み入った話をしたことがなかった。


ななは、なんだか新鮮で、芳野先生のいろんな事を根掘り葉掘り聞いた。


「彼女はいるのー?」


「うーん、大学でいつも一緒にいる女友達はいるけど、彼女じゃないなぁ」


ずり落ちてきてもいないのに何度も眼鏡を押し上げる芳野先生が可笑しくて、ななはカラカイ半分で茶化した。


「絵を描く時はさ、やっぱり理想の女の子を想像したりして創作するんでしょ」


「え、いやっ…」


今まで以上に動揺した様子に、今度はななが戸惑った。


誕生日に貰ったイラストを思い出す。


なんだか、男の人の性を目の当たりに感じた気がしたのだ。


 ― 先生は、私のこと、好きなのかな?


自意識過剰かもしれない。


だけど、それなら嬉しいと思う。


「先生、私が大人になったら結婚してくれる?」


「はは…、いつの話だよ。その発想がまだ中学生だな」


「だって、来年の今頃はもう16歳だよ?結婚出来ちゃう歳でしょ?」


芳野先生は黙って、残りのコーヒーをすすった。


「そうだね。いい女になってたらね」


「あー、流したなー」


ななは、頬を膨らませた。


「はいはい、結婚、します、します」


芳野先生はトレーを持って立ち上がると言った。


「さ、もう帰らないと」


店を出ると、日はすっかり落ちていた。


先生は、ななの家の方向へ向かって歩き出した。


「あ、いいよ。一人で帰れるから」


「ダメ、家の前までは送ってく」


二人はまるで恋人同士のように、家路を歩いた。


ななは、男の人と並んで、こんなに長い距離を歩くのは初めてで、なんだかドキドキした。




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* 第十三話 * ~ななの場合~ ④

「先日は申し訳ありませんでした」


芳野先生は来るなり玄関先で深々と頭を下げた。


母が慌ててとりなす。


「いいのよ、人にはいろんな都合があるものなんだから。どうぞ、お上がりください」


そういいながら、スリッパを差し出した。


ななは、わざと膨れっ面で迎えたが、内心はなんだか泣きそうだった。


用意されたいつもの座椅子に膝を付けると、芳野先生は小脇に抱えていた書類用のホルダーからA4サイズの封筒を取り出した。


「ななちゃん、これ」


渡されたななは促されるままに封を開けた。


「え、何これ」


取り出したのはカラー原稿だった。


ななの中学の制服を着た少女が繊細なタッチで描かれている。


「これ、もしかして…」


芳野先生は、せわしなく眼鏡を指で上げながら、大きく頷いた。


「私…?」


「そう、あんまり似てはいないけど」


とても可愛くて、素敵な色使いの優しいイラストだった。


「ななちゃん、先週、誕生日だったでしょ」


芳野先生が照れ臭そうに笑った。


驚きのあまり、一瞬声が出なくなる。


「こんな気色悪いプレゼントしか思いつかなくて悪いけどさ」


そう言って、自嘲した。


ななは、ふるふると顔を横に振った。


「…ううん、すごいよ。感動…した」


やっとの思いでそう言うと原稿を持って立ち上がった。


「見て!おかあさん、これ、先生が私を描いてくれたのっ」


覗き込んだ母が目を丸くする。


「まあ、あらあら、素敵じゃないの」


「先生っ!私、これ宝物にする」


「額に入れなくちゃだわね」


バタバタと駆け回って喜ぶ親子を芳野先生はホッとした表情で眺めていた。


実は先日、女友達にこの作品を見せたところ、ロリコンだの変態だの散々罵られたのだ。


芳野先生に思いを寄せていたその彼女は、嫉妬に狂い、原稿を破こうとする暴挙に出た。


その騒動の為に、彼の一日のバイト代はふいになったのだった。


「喜んでもらえて嬉しいよ」


芳野先生は、複雑な思いを笑顔の裏に閉じ込めた。


確かに。


女友達が嫉妬するほどに、このイラストには思い入れがあった。


妹のように可愛いなな。


隣にいるだけで抱き締めたくなるなな。


それを恋愛感情だと認めてはいけない。


ななは15歳になったばかりだし、それ以前に生徒である。


この絵を描きながら、勃起していたことは知られてはならないことなのだ。


そんな葛藤を、絵を一目見ただけの女友達に見抜かれてしまったのだから、油断ならない。


なんとしても内に秘めねばならない。


それなのに、このイラストをななに渡したのは、やはり気付いてほしいという煩悩が消せなかったからだ。


果たして、ななには伝わったのだろうか。



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* 第十三話 * ~ななの場合~ ③

家庭教師がある日は授業が終わったあとに、家族みんなと芳野先生とで夕食を食べて終了という流れが出来上がり、すっかり家族ぐるみの付き合いに発展していた。


父も母も芳野先生にとても好感を抱いている。


一人っ子のななもお兄さんが出来たようで、とても喜んでいる。


2学期が始まって、学力テストや中間テストでなかなかの点数を取れるようになった。


ランキングを一気に上げたななに友人たちも学校の先生もとても驚いていた。


この調子で、期末も、最期の砦である受験も乗り越えられれば、芳野先生サマサマである。


もともとのななの頭脳もあるが、芳野先生の教え方はとても分かりやすい。


漫画家じゃなくて、教師になればいいのにと思うほどだ。


だけど、芳野先生の漫画の腕も相当なもので、ななはいつも感心していた。


それなのに、出版社に持ち込みをしたり、各種コンクールにも応募している結果はあんまり芳しいものではないらしい。


ななは芳野先生の描く物語や絵柄が大好きなのに、その道のプロというのは、やはり難しいものなんだそうだ。


リビングのソファに寝転がっていたななは、ふと時計を見て、17時を回っていることに気付いた。


「おかあさーん、今日、先生遅いねえ」


洗濯物を畳んでいた母が顔を上げた。


「あら、ホントねえ。どうしたのかしら」


「電話してみたらー?」


「ええ?もう家は出てるでしょうよ」


母は、畳んだ洗濯物を抱えて、二階へ上がっていった。


ななは、そわそわして、玄関へ出てみた。


家の前の道に出て、いつもやってくる方向を見てみるが、気配はない。


「はは、何、待ち遠しく思っちゃってんだか」


妙に照れくさくなって家の中に戻った。


勉強時間が少なくなってツイてるな程度に思おうと、もう一度ソファに寝そべった。


が、時計の進みが気になって仕方がない。


気を紛らわす為に、借りていた吉野先生の漫画の原稿をペラペラとめくった。


「うーん、やっぱスゴイ」


 TREEE,TREEE…


「あ、先生かな」


ななは飛び起きて、受話器を取った。


「はい、渡辺です」


電話の主は、やはり芳野先生だった。


気のせいか、声が緊迫している。


「すまん。ちょっと今日は行かれそうにないんだ」


「どうしたのー?」


「うん…、ちょっとトラブって…」


受話器の向こうに、声が聞こえた。


何か、喚いている。


 ― 泣き叫んでいる?


女性の声だった。


「先生、彼女と喧嘩したんじゃないの?」


ななが少し冷たい声で尋ねる。


「いやいやいや、あー、とにかく、ごめん、今日は無理なんだ。ご両親には改めてお詫びします」


そう言ってガチャっと電話は切れた。


ななは、ムっとした。


「おかあさーん、今日、先生来られないってー」


二階に向かって、そう大声を出すと、怒りのせいか語尾が涙声になった。


「?」


なんだか喉が締め付けられるようだ。


芳野先生が来られないだけなのに。


勉強しないで済んでラッキーなはずなのに。




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* 第十三話 * ~ななの場合~ ②

芳野先生が、ななの家庭教師になって3週間が過ぎた。


残暑厳しい、8月も半ば。


もう日も暮れ始めているというのに、外では蝉がうるさく鳴いている。






芳野先生は、最初の印象とは違って、意外とよく喋る人物だった。


授業もそこそこ分かりやすく、苦手なところの対策もしっかり立ててくれる。


服もきちんとアイロンがかかったような清潔なものを着用しているし、夏真っ盛りだというのに汗臭くもなかったので、隣に座るのにも嫌な感情はなかった。


ななは、最初に思っていたより話しやすい芳野先生にどんどん慣れていった。


一番の楽しみは、芳野先生が描いている少女漫画を読むことだった。


芳野先生の夢は漫画家になることなんだそうだ。


それが分かってから、毎回、今まで描いた作品を持ってきて、貸してくれる。


そして、ななに感想を求めたり、このシーンの場合の女の子の心情はどうかとかアドバイスを求めてくる。


ななは、それが楽しくてしょうがなかった。


芳野先生もななのちょっと毒の入った感想に一喜一憂しながら、とても楽しんでいるようだった。


「さ、そろそろ休憩でしょ?どうぞ」


母が、冷たいレモンティーを持ってきた。


数学の難問に頭を抱えていたななの表情がパッと明るくなった。


「先生、今日は終わったら、お夕食一緒にいかが?」


夕飯の下ごしらえ中の母が、ダイニングの方から声を掛ける。


「あ、いえ、それは…」


「そうだよ。いつもすぐ帰っちゃうじゃん。これからは食べてから帰りなよ」


ななも母と一緒になって、芳野先生に食事を勧めた。


「うふふ、お部屋で彼女でも待ってらっしゃるのかしら?」


母が冗談を言うと、芳野先生は顔を真っ赤にして否定した。


「いやいやいや、そんなことはないですがっ」


「じゃあ、今日は食べてって。決まり!」


ななは、はしゃいだ。


「んー、じゃあ、お言葉に甘えて…。なんか、あんまり居心地がいいもんだから、入り浸っちゃいそうで、怖いんですよぉ」


芳野先生は、分厚い眼鏡を指であげながら、承諾した。


「わー、嬉しいな」


「はいはい、じゃあ、数学の続きやるよ」


「ほーい」


ななは、すっかり芳野先生に懐いていた。



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* 第十三話 * ~ななの場合~ ①

渡辺なな、中学三年生。


昨日から夏休みに入った。


今日から早々に、家庭教師がつく。


ななは、これまで一度も塾に通ったことはない。


学校の授業だけでも、充分理解出来ている。


塾は帰りが遅くなるし、違う学校の知らない生徒とも関わりが出来るから、親は心配なのだ。


ピアノも習っているが、それへも親が車で送迎してくれる。


別に家が裕福なお嬢様という訳ではない。


単に過保護なだけだ。


ここにきて高校受験に向けて大事な時期を迎え、流石に親も考えたようで、塾ではなく家庭教師という方法を選んだ。


ただそれだけのことだ。


ななは、勉強が出来ないわけじゃないが、好きではないので、この決定は正直歓迎していない。


先生は、この春大学生になったばかりの人だそうだ。


一応、有名私大に現役で入った人ではあるらしいが、一体どんな先生が来るのだろう。


優しいキレイなお姉さんだろうか。


それともSMAPの森くんみたいなカッコいいお兄さんだろうか。


ななは、本来の目的そっちのけで、期待に胸を膨らませた。


チラリと壁の時計を見上げると、17時なろうとしていた。


これから週2回、17時から19時までの二時間が、ななの家庭学習の時間となる。







♪ピンポーン


ななは、部屋でドキリと身を縮ませた。


階下から、母の声が聞こえる。


「あ、芳野先生ね、いらっしゃいませ。ななー、なな、降りていらっしゃい」


ななは、ひとつ深呼吸をして、部屋を出た。


階段を降りていくと、玄関ホールに青いチェックの半そでシャツにチノパン、リュックを背負った若い男性の後姿が見えた。


 ―― オタク?


ななが一階に降り立つと、ちょうど靴を脱ぎ終わった先生が振り向いた。


「あ…」


一瞬、驚いた声を漏らした先生が、ななに向かって会釈した。


「芳野浩太です。ななさん、今日からよろしくお願いします」


「はいはい、ここ狭いから、奥へどうぞ」


母が、リビングへ芳野先生を案内した。


やたら分厚い眼鏡に長めの髪の芳野先生は、ななにはちょっと気持ち悪く見えた。


「じゃね、今日からこのリビング使って、お勉強してちょうだい」


母が言った。


リビングには、勉強用に小さなテーブルが置かれていて、座椅子が用意されていた。


 ―― 良かった。こんなキショい人、部屋入れたくないもんね。


ななは、少しホッとした。


芳野先生は、居心地が悪そうに床に膝をついた。


「渡辺なな。志望校は、M高校なんだけど、ちょっと偏差値足りないんだって」


ななが、早口でそう言うと、芳野先生は中指でせわしなく眼鏡をあげる素振りをした。


「そう、じゃ、今日はどのへんの勉強が苦手なのかとか、そういうの全体的に教えてください。次までに対策を立ててきますから」


「うん、わかった。じゃ、教科書持ってくるね」


ななは、そう言って、また階段を昇っていった。


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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑪終

「へえ、そんで?」


「郁美とはそれっきりですよ」


茂樹は、職場の先輩である伊達和人の部屋にいる。


「なんか微妙に気まずくて、翌日駅まで送って、あいつが東京帰ってからも何回か電話で話はしたけど、会いはしなかったんです」


伊達が、空いたグラスにブランデーを注いでくれた。


茂樹が軽く会釈して応える。


「結局、天野さんってのにも手出したんだろ?しかも、俺、同姓同名の女知ってる」


茂樹は笑って、ソファの上でのけぞった。


「えー?マジっすか?でも、その手出したのが失敗の元でしてねー」


えっ?という表情で伊達が食いついてくる。


「僕が手を出す前から支社長の愛人だったんですよね、彼女」


「あらら」


「捨てられそうになってたみたいで。支社長へのあてつけに僕に近づいて、職場では三角関係って噂になっちゃいました。お陰で、通常より早くに関東へは戻れたんですが…」


ぐっとロックのブランデーを呷る。


「支社長の野郎が嫉妬であることないこと報告してくれちゃったお陰で、左遷対象ですよ。千葉のド田舎の支社に飛ばされました」


「で、今やキャバクラのマネージャーってか」


伊達が慰めるように、茂樹の肩をポンと叩いた。


茂樹は自嘲気味に笑って、うなだれた。


「あー、喋りすぎました」


顔を上げると、大きな窓の外に朝日が昇ってきたのが見える。


都心の高級マンション。


最上階のペントハウス。


伊達の成功の証。


茂樹は、ゆっくり立ち上がって、窓辺に歩み寄った。


「なんか制覇した気分になりますね。この眺め…」


酒臭い深呼吸をして、ガラスに身体を預ける。


「ソファで悪いけど、出勤まで寝てっていいぜ」


後ろから伊達の声がした。







出世を約束されていた僕が、一時の間違いで、水商売。


あのまま左遷先で耐えていればよかったのでしょうか。


他の会社への転職という方法もあったのに、自暴自棄になった僕は面倒から逃げて、一見華やかな世界に逃げ込みました。


それが表面だけだってこと…、今は嫌というほど思い知りましたけど。


なんだか郁美にもう一度会ってみたいと思いました。


もっと彼女を大事にしてあげればよかったけど、僕の浮気心が全ての元凶。


合わせる顔なんかありません。


はあ…、酔いました。


寝ます。


起きれば、またいつもと同じ日常が始まります。




 -終-


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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑩

僕は、目の前の郁美、背後の天野さんの狭間で、頭をフル回転させていました。


が、うまい言い訳がまったく思い浮かびません。


そもそも、誰に言い訳をすればいいのかすら混乱していて、よく分かりませんでした。


「あ、じゃあ、今日はお疲れ様でした、後藤さん。また明後日、職場で…」


何かを察したように天野さんが口を開きました。


天野さんの様子を見ると、ごそごそとフォーマルバッグ内を探しています。


「あれー?鍵が…」


「うん、じゃあ、お疲れ様でした。おやすみなさい」


僕はそう言って、自分の部屋の前に進み、素早く部屋の鍵を開けました。


「さ、郁美、入って」


怪訝な顔の郁美が、天野さんの様子を伺っています。


「あ、あった、あった」


天野さんは鍵を取り出すと、僕の部屋より二つ手前の部屋のドアを開けようとノブに手を置き、郁美に笑顔で会釈しました。


「おやすみなさーい」


 ― そうか、ここは社宅だった!


他人の部屋の前で自分の部屋のフリをしてくれている天野さんの心遣いにやっと気付いた僕は、郁美の背を押し、自分の部屋に入れると、ドアを閉めました。


「どうしたの?急に。住所だけでよくここまで来られたね」


「うん…、タクシー拾ったから」


「いつから待ってたの?寒かっただろう?」


僕は急いで、暖房をつけ、炬燵のスイッチを入れました。


「あの、今の人は…」


「うん、同じ職場の人。葬式終わって一緒に帰ってきたんだ」


「ふーん」


黒いネクタイを外しながら、僕は天野さんが気になって仕方がありませんでした。


 ― ひとりでちゃんと帰れただろうか…。


「そんなことより…」


僕は、後ろからギュッと包むように、郁美を抱きしめました。


「こんなに遠いところまで…」


「ごめんね、急に来ちゃって。でも、どうしても会いたくて…」


僕は郁美を前に向かせました。


「ありがとな。でも、連絡ぐらいしなさい」


両肩をしっかりと掴み、目をじっと見つめると、年上ぶって落ち着いた声で諭しました。


郁美の睫毛が2、3回しばたいたかと思うと、ポロリと水滴が落ちました。


「あんな…喧嘩みたいになっちゃって…、私、不安で…」


「うん」


「でも…、私が来ちゃ…いけないところに来ちゃったのかなって…」


僕は、郁美の唇に優しく触れました。


「そんなことないよ。嬉しいよ」


ポロポロと涙をこぼす郁美を畳に座らせるとそのまま押し倒しました。


恥ずかしいのか視線をそらす郁美の瞼にキスします。


だんだんと下に降り、首筋を僕の唇が這った時、郁美が言いました。


「やっとだね」


僕は、静かに笑って、郁美のフワフワの髪を撫でました。


ようやく実物の郁美を抱いているのに、僕の頭は他の事を考えていました。


下半身は、夢にまで見た郁美の中で熱く滾っているというのに、脳では冷静に天野さんのことを思っています。


 ― あんな芝居させてしまって…、彼女は傷ついただろうか。


激しく腰を振り続けます。


汗が郁美の鎖骨に滴り落ちました。


息が上がった僕は、郁美の中から抜け出すと、隣にゴロンと横になりました。


「後藤君…?」


「ごめん、疲れてるのかな」


僕と郁美の初めてのセックスは、イクことが出来ずに終わったのでした。




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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑨

隣の席の彼女は、天野友紀さんといいます。


天野さんは、いつも僕に優しく、いろいろ世話をしてくれていて、大変助かる存在でした。


普段はあまり気に掛けていなかったけれど、改めて思うと、天野さんは僕に気があるんだなと確信しました。


一応、支社長以外に若い男性は自分しかいないので、それも僕は本社からの出向なので、狙われている感は強く感じていましたが、隣の席は盲点でした。


ちょうど精神的に落ちている僕に、彼女の気遣いは浅すぎず深すぎず、とても有難いものでした。


土曜の通夜、日曜の告別式が滞りなく済み、帰り支度をしていた僕は、少し離れたところに天野さんの姿を認めました。


「天野さん!」


僕は、帰ろうとしていた彼女を呼び止めて、飲みに誘いました。


「ええ、いいですよ。でも、ここから飲み屋街まで行くにはちょっと遠いですね」


「あ、じゃ、僕んちで飲みませんか?軽くつまみでも買って」


最初の誘いにしては強引、且つあからさま過ぎたかと一瞬しまったと思いましたが、天野さんはにこやかに賛同してくれました。


ちょっとした買い物を済ませ、二人で僕の自宅まで歩きました。


道の両脇に積もった雪が夜道に反射して幻想的でした。


まるで同棲しているみたいで、道往く僕はなんだか楽しくて、思わず買い物袋をぶんぶん振り回してしまいました。


天野さんがくすくすと笑います。


「子どもみたいですね、後藤さんったら」


「えー?なんかうちに誰か来てくれるのかと思ったら嬉しくなっちゃって」


「どうして?」


「これでも寂しいんですよ。東京から誰も知らない土地に来て…」


天野さんがすっと僕の手をとりました。


その手を揺ら揺らさせて、僕たちは歩きます。


「じゃあ、今日だけと言わずにしょっちゅう遊びに行っちゃおうかな、私」


天野さんは、いたずらっ子のような目で僕を見上げました。


ふふふと僕は笑いました。


「ほら、あそこの街灯のとこが、うちです」


あと80メートルほどのところで、指を指しました。


その先に、ちらりと黒い影が見えた気がしました。


 ― なんだ?


僕は目を凝らしました。


 ― 気のせいか…。


「はい、到着でーす」


「二階?」


カンカンと階段を上がっていきます。


外廊下に差し掛かり、顔を上げた瞬間、僕は氷のように固まりました。


僕の家の玄関の前に誰かが寄りかかって、手に白い息を吹きかけていたからです。


「なんで…?」


思わず呟いた声が届いたのか、顔がこちらを向きました。


「あ、おかえりなさい。待ったよー、凍えちゃいそう!」


もう、お分かりでしょう?


ご想像通り、郁美がそこにいたのです。


「どうかしたんですか?」


僕の後ろから、天野さんが顔を覗かせました。


そして、天野さんと郁美の視線がバッチリ合いました。


万事休すです。



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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑧

数回に渡って、郁美から着信がありましたが、僕は出ませんでした。


朝起きて留守電を聞くと、郁美が泣きながら電話に出ない僕を責めていました。


話くらい聞くべきだったかなと少し反省の気持ちもありましたが、昨夜の男の声を思い出すだけでやっぱり腸が煮え繰り返る思いでした。


むしゃくしゃしながら乱暴に席に着くと隣の女性社員が挨拶をしてきました。


「後藤さん、今日支社長お休みだそうですよ」


「なんでです?今日、支社長と回る先あるのに」


「息子さんが交通事故で亡くなられたそうなんです」


僕は飛び上がらんばかりに驚きました。


「ええっ?本当に?」


向かいのおばちゃん社員も話に交ざってきます。


「土曜にお通夜で、日曜に告別式だってさぁ。あたしらも手伝いに行かなきゃだわよ」


「土日…」


僕は愕然としました。


確か高校生だと聞いていた支社長の息子さんの死も衝撃でした。


しかし、不謹慎ですが、そんなことよりも、この三連休が葬儀で潰れる事に愕然としたのです。


おばちゃん社員が言うように手伝いに行かなければならないということは、通夜に焼香に伺うだけではダメということでしょう。


台所仕事は無理なので、受付か会計をさせられるのだろうと予想がつきます。


亡くなった方には申し訳ありませんが、正直言って、勘弁してくれと思いました。


僕は廊下に出ると、休憩を見計らって、郁美に電話を掛けました。


「もしもし、後藤君?あの、昨日は…」


昨夜の事を謝ろうとする郁美を遮り、用件を伝えました。


「すまない、連休帰れなくなった」


沈黙が流れました。


「支社長のご家族が亡くなって、お通夜とかの手伝いに行かなきゃならない」


「嘘っ」


郁美は強い口調で言いました。


「怒ってるんでしょ。だから私に会いたくなくなったんだ。帰ってくるのが面倒になったんでしょう」


「違うよ、本当に葬式なんだ」


みるみる涙声になる郁美に僕はイラッとしました。


「昨日は悪かったわよ。でも私だって可愛がってもらってる先輩のすることに文句言いづらいし」


「そういうことじゃないだろ」


「だって…」


「会いたいのは変わらないよ。でも冠婚葬祭は仕方ないだろう。わかってよ」


僕は怒鳴りたいのを我慢して、懇願しました。


「もういいっ!嘘つき!」


通話は切れました。


僕は深い深いため息を吐いて、壁に寄り掛かりました。


しばらくボーッとしているとオフィスから声が掛かりました。


「後藤さん、コーヒーいれたんでどうぞ~」


隣の席の彼女でした。


「ああ、すぐ行きます」


僕はやっと返事をして、席に戻りました。


「うまい」


今日はじめてホッと一息つけた感じがしました。


隣に向かって、礼を言うと、気のせいか彼女の頬が赤く染まったようにみえました。



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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑦

一週間が過ぎ、僕達は毎晩電話で話し、時々イチャつきながら小さな愛を育んでいました。


単純だと思われるかも知れませんが、妙に仕事も頑張っちゃったりして、次の連休にまた郁美に会えると思うと、ド田舎の勤務も苦になりませんでした。


そんな時、郁美からショートメールが届きました。


余談ですが、この頃、僕はまだIモードを持っていなかったので。


『コンヤハノミニイッテキマス!イクミ』


同僚とでしょうか。


素直に羨ましく思いました。


僕の場合、仕事が終わって飲みに行くのは、大抵、取引先のお客様か支社長、もしくは周りのおばちゃんを始めとする僕を狙う女豹たち。


せっかくお酒を飲んでいても気が抜けないのです。


同世代の男連中と飲みに行けないつまらなさ。


これが僕の頻繁な帰省に拍車をかけていたのですから。


郁美のメールに少しテンションが落ちて、とぼとぼと家路に着きました。


缶ビールを飲みながら、コンビニで買った弁当で、侘しい夕食をとっていると、着信がありました。


郁美です。


もう飲み会が終わったのかなといそいそと電話に出ると、いかにも居酒屋っぽい騒がしい音の中に郁美の声が響きました。


「あ、後藤君?今、まだ飲んでるんだけどね」


ご機嫌な様子がよく分かりました。


「良くしてもらってる先輩にね、彼氏が出来ましたって報告したの。そしたらね、ふふっ」


郁美の後ろに何人かの男女の声が聞こえます。


よく耳をすますと。


 ― 俺たちが見定めてやる。かわれ、かわれ。


僕は信じられない思いでいました。


「どんな彼氏か俺たちが判断してやるって騒いでるの」


郁美はまんざらでもなさそうな感じで言いました。


「電話かわれってうるさいの。ね、いいでしょ?」


僕はカチンときました。


「良くないよ。なんで知らない男と話して、お前の彼氏に相応しいかどうかなんて試されなきゃいけないんだ?」


僕は冷静に話したつもりでしたが、郁美には怒りが伝わったようで、一瞬ひるみました。


「そもそも…」


「もっしもーし」


急に男の声に代わりました。


「郁美ちゃんの彼氏さんですかぁ!」


「…」


「遠距離なんか続くの?郁美ちゃん泣かせたらただじゃおかないぜ」


「はあ」


明らかに酔っ払った男がなんの権限で僕にそんなことを言うのでしょう。


「ご、ごめんっ、携帯奪われちゃって」


郁美が慌てて出ます。


「もう帰るから。帰ったら電話するから、ごめんね」


「いいよ、電話なんかかけてくんなよ。先輩さんとごゆっくり楽しくやってりゃいいだろ」


思わず大人気ない発言をして、通話を切りました。


頭に血が昇って顔が真っ赤になっていました。


こんなにムカついたのは久しぶりでした。


気付いたら、持っていた割り箸が折れていました。


郁美が僕の手の届かない場所で男と一緒によろしくやっているのも気に食わないし、彼らが東京で楽しく飲んでいることも癇に障りました。


すべてにおいて、嫉妬で狂いそうでした。



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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑥

新幹線に乗り、トンネルを抜け、だんだん景色が雪深くなっていきます。


この辺りは、繁華街といってもちっとも華やかではなく、狭い道路が延々と続き、夜になれば辺りは真っ暗で、雪を始めとする自然だけは脅威を感じるほどに充実しています。


僕は、この地に近づくごとに憂鬱になりました。


この敷地だけはでかいが小さな支社で何年我慢すれば東京に戻れるのでしょう。


ため息をつきつつ、社宅のドアを開け、暖房をつけました。


およそ五時間の移動で身体が凝りに凝っています。


ポストに新聞とともに入っていた数枚の年賀状とピンクチラシを炬燵の上にポンと放り、寝転がりました。


「デリヘルかぁ。新年早々よくやるぜ」


独り言をつぶやきながら、ピンクチラシを眺め、だんだんとその気になってきたところで、携帯電話が鳴り、僕は肝を冷やしました。


ディスプレイには、郁美の番号が表示されていました。


「もしもーし」


動揺を悟られないように低い声を出しました。


「着いた?」


郁美の声を聞いて、鼻腔に彼女の香りがふっと蘇りました。


「着いたよ~。移動だけでくたくただ」


「なんか不思議。こんなに近くで声が聞こえるのに、遠くにいるんだ」


淋しそうな台詞にキュンとしました。


「心配すんな。成人の日にはまた帰るんだから。待つのはほんの10日ばかりだろ?」


「そうだよね」


僕は何かと理由を付けては東京に帰っていたから、月に二度は往復していました。


僕の給料の大半は交通費。


それだけ、この地で一人でいるのはつまらなく、淋しかったのです。


「彼女には優しいんだ。不安になんかさせない」


「え?」


やや沈黙がありました。


「私…、後藤君の彼女になっていいの?」


こっちに戻ったことに滅入ってて、少し勢いを付けすぎたかもしれませんが、僕は頷きました。


「嫌?」


「ううん、嬉しい」


受話器越しに郁美がチュッとしてくれたのが聞こえると僕の股間が熱くなるのが分かりました。


「ここでエッチしようか」


「…」


郁美の戸惑いが感じられました。


僕は変態染みたことを口走ってしまったと慌てて訂正しようとしました。


「いいよ。どうしたらいい?」


一瞬、耳を疑いました。


「うん、じゃ、服脱げる?」


「今、パジャマなんだ。前だけはだけたよ」


恥ずかしそうな郁美の愛らしい声が耳奥に届いてきます。


僕はデニムのファスナーを下げるとおもむろに大きくなったムスコを取り出し、握りました。


「じゃあ、僕が郁美の乳首をコリコリするからね」


「あ…うん…」


しばらく戯れた後、あまりの興奮に僕はすぐ果ててしまい、途端にものすごい恥ずかしさが僕を襲いました。


「ごめんね、郁美。電話でこんなこと…」


「いいよ。素敵だったわ。」


上気した声が伝わり、僕は安堵しました。


「次会ったときには、私の中でイってね」


「うん、郁美、大好きだ」


僕はあまりに幸せで、また昇天しそうでした。



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* 第十二話 * ~茂樹の場合~ ⑤

郁美の車を僕が運転させてもらって、都内の実家の近くまでやってきました。


教習所以来のギア車の運転はなかなか面白かったです。


うちから少し離れた場所に停めました。


僕はキスくらいしたくて、すぐに降りずに、わざと運転席に乗ったままでいました。


なかなかタイミングが掴めなくて、他愛のない話をしばらく続けてしまいました。


車内の時計は23時半になろうとしています。


このあと一人、また運転して帰るんだから、早くしてあげないといけないのに、いざという瞬間が訪れないのです。


「ごめんね、なんか離れたくなくて、ダラダラ話しちゃった…」


郁美がそう言って俯きました。


その気持ちは痛いほど伝わってきていました。


だから、余計に唇を捉えるタイミングがうまくいかなくて…。


でも、郁美がそう言ってくれたことで、僕もなんだか気がほぐれました。


「目、つぶって」


僕は上半身をグイと助手席の郁美の方まで起こすと、そっとキスをしました。


「ん…」


先日は郁美の方から僕の唇を奪ったというのに、今夜はいやにしおらしいのは、やはり暫く会えなくなるからだったのでしょうか。


僕は思い切って、右手をシートの隙間に伸ばして、座席を倒しました。


郁美が潤んだ瞳で僕をじっと見つめます。


「可愛いよ…」


唇を合わせ、結び目を解くようにほぐしながら、右手を郁美の胸に当てがいました。


郁美の左手が僕の右手首をしっかり掴み、動きを封じようとします。


「ダメだよ」


吐息混じりの抵抗。


「なぜ?」


僕は攻め続けます。


「これ以上進んで、今度会えなくなるのが怖い」


それを聞いて、思わず郁美をギュッと抱き締めました。


郁美も僕の首に手を回しました。


「そんなことないよ。必ず電話するし、また会おう」


「じゃ、その時はエッチしよ…」


郁美は耳元で囁き、正直、制御出来なくなるかと思いました。


これでも一応オトナなので、なんとか抑えましたが。


最後にもう一度だけ軽くキスをして、姿勢を戻しました。


「やぁだ。窓曇っちゃった」


郁美はそう言って笑い、しんみりしそうな空気を吹き飛ばしました。


僕達は車を降りて、郁美が運転席に乗り込むと、パワーウインドウを下げました。


「じゃあね、明日お見送り行けないけど、気を付けて帰ってね」


「お前こそ、帰りに事故んなよな」


「うん、おやすみね」


僕は簡単に大通りまでの道順を教えると、郁美が角を曲がるまで、テールランプを見送りました。



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プロフィール

香月 瞬

Author:香月 瞬
短編小説を主に、様々な恋路を綴ってまいります。
友達のコイバナを聞くようなつもりで読んでいただけると嬉しいです。

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